写真 |
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城名 |
長浜城 ながはまじょう 水城 |
別名 |
今浜城 |
建築年代 |
1336年(建武三年) |
築城者 |
京極高氏(道誉) |
文化財指定等 |
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住所 |
滋賀県長浜市公園町小字本丸 |
地図 |
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最寄り駅 |
JR北陸本線長浜駅から徒歩5分 長浜ICから車10分 |
歴史 |
長浜の地名は、今浜と称していた。最初に城が築かれたのは1336年(建武三年)で京極高氏により築城された。今浜城がこれで被官の今浜氏が入っていた。1573年(天正元年)八月、北近江の雄、浅井氏を小谷城に滅ぼした織田信長は、戦功のあった羽柴籐吉郎秀吉に浅井長政の旧領の北近江三郡(伊香・東浅井・坂田)十二万石を与えた。城もまた長政の元居城をあてがわれ、一国一城の主となる。秀吉が木下姓から羽柴姓に変えたのはその年の七月だった。しかし、要害の地である小谷城を捨て今浜の地に築城を望んだ。琵琶湖湖岸の今浜は、北陸と畿内を結ぶ水陸交通の要衝として、また、鉄砲生産地国友村の管理、湖北の一向一揆の対応に都合の良い地であったからだ。工事を始めたのは1574年(天正二年)6月からで城普請について、出家・侍・奉公人・商人に限らず鍬・鋤・もっこを持ち、人足として出ることを命じている。もし応じなかった場合は成敗するという厳しい人足徴収令であったようだ。築城の用材は小谷城から転用したと言われる。併せて町造りも進め、紺屋町・魚屋町・呉服町・金屋町・鉄砲町等を経営。小谷城の城下町を強制的に今浜に移し、平方・箕浦・川道から商人を招き、年貢の面で優遇した。安土城と平行して行われただけ有り関連が深く、水運の便で両者は結ばれる他、水軍を擁した水城の構造と成っていた。信長の武将として各地に出陣するが、翌三年の越前一向攻めには大活躍を見せ、十二月には越前守に任ぜられた。信長が天正十年六月、本能寺で倒れた後、尾張清洲城で行われた評議で、秀吉は山城・丹波両国を得、秀吉の旧領北近江三郡と勝家の旧領越前八郡は柴田勝家の物となる。このため長浜には勝家の甥柴田勝豊が入り、秀吉は山城山崎に築城している。その年の冬、五万の兵を率いて出陣した秀吉は、長浜城を攻めて勝豊を降した。勝家と秀吉が雌雄を決すべく戦ったのは翌十一年三月。決戦があったのは賤ヶ岳においてだが、それに先立つ初戦の大岩山で柴田軍に破れた事を知った秀吉は、大垣から急遽軍を近江木の本に移動させたが、このとき長浜城下町人等は秀吉のために奔走に努めたという。秀吉の善政に対する報恩の意味が有った様だ。大阪にて天下人として覇を唱えた秀吉は、柴田勝豊らを城主とした。関ヶ原の後は内藤信成が入城するが、元和の一国一城令で廃城。その建物と石垣は湖上で船を使い彦根に移されたと言われる。彦根城天秤櫓は現存、搦め手にあった山崎曲輪三重櫓が天守であったと言われるが残念ながら今は存在しない。大通寺台所門と書院の一部も廃城後に移された物と言う。 |
感想 |
豊公園として市民の憩いの場所になっている。駐車場も広く無料なのが嬉しい。ストリートミュージシャン(?)の姿も目立つ。遺構は本丸と石垣と言うが・・・・当然の事ながら復元城は興味なし(^^;;; 中には入らず周りを一周して終了した。
長浜城(市立長浜城歴史博物館)
AM9:00〜PM5:00(入館pm4:30迄)
年中無休(12/27〜1/2は休館。展示替えの臨時休館有り)
個人400円。小中100円。団体20名以上大人320円。小中80円。
滋賀県長浜市公園町10−10 電話0749−63−4611 |
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01.10.08 |