写真 |
四ツ辻跡 |
目加田屋敷跡 |
目加田屋敷跡 |
権現見附 |
権現見附 |
ネズミ岩 |
観音正寺 |
観音正寺 |
観音正寺 |
観音正寺下の石垣 |
石段 |
石段 |
三の丸付近 |
三の丸付近 |
本丸石垣 |
説明版 |
本丸 |
虎口石垣 |
本丸 |
本丸 |
本丸 |
石垣上から見た本丸 |
井戸跡 |
本丸 |
本丸石段上から |
本丸石段下から |
三の丸 |
石段横の排水溝 |
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奥の院付近 |
城址碑 |
奥の院付近 |
奥の院付近 |
奥の院 |
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城名 |
観音寺城 かんのんじじょう 山城 |
別名 |
佐々木城 観音城 |
建築年代 |
応仁・文明年間 |
築城者 |
六角氏 |
文化財指定等 |
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住所 |
滋賀県蒲生郡安土町石寺 |
地図 |
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最寄り駅 |
JR東海道本線安土駅からバス 石寺下車、徒歩40分 |
歴史 |
きぬがさ山(標高433メートル)は俗に観音寺山と称される。山頂から南側の山腹に掛けて築かれた規模は大きく我が国屈指という。観音寺城が何時築かれたのは明らかではない。「太平記」に足利尊氏に味方した佐々木氏頼が1335年(建武二年)に北畠顕家軍の侵攻を食い止めるために観音寺を城郭化したことを記している。佐々木氏は宇多天皇の後裔といい、つまり宇多源氏である。秀義の時清和源氏の惣領源為義の女婿となり、この縁から源頼朝の覇業を助けた。南北朝時代、宗家庶流に高氏が登場。古い権威と秩序を敬わず、時代を生きたバサラ大名こと佐々木道誉(どうよ)である。これにより近江内は嫡流氏頼と道誉が並立する状態となった。のちに道誉系が京極氏、そして氏頼系が六角氏となる。本格的な城郭となるのは応仁文明の乱あたりからで、佐々木氏惣領をめぐり京極持清が東軍、六角高瀬が西軍について争い、高瀬はしばしば観音寺に籠城している。1471年(文明三年)六月に高瀬は、箕作山で六角政暁を破り名実共に観音寺城で守護に就いた。六角氏は伊庭氏や浅井氏等の被官らの反乱を見るが、1533年(天文二年)には湖東の名所となるほどの立派な観音寺城を築いて室町政権の後ろ盾となった。南麓の城下町石寺は1549年(天文十八年)我が国最初の楽市(租税を免除した)の制度が敷かれた地として有名だ。六角義賢の代には鉄砲が伝わり、1556年(文禄元年)石垣を巡らす改築を行う。義賢は、十二代将軍足利義晴、十三代将軍足利義輝を庇護するのに精魂を傾ける。1558年(永禄元年)義輝を入京させ、翌年家督を子義弼に譲って出家した。1568年(永禄十一年)織田信長は足利義昭を奉じて上洛軍を催すが六角勢は観音寺城に立て籠もりこれを阻止、しかし、支城の箕作城が九月に落城、信長はこれを陥落させた。義賢、義弼父子は城を捨て甲賀に走ったという。 |
感想 |
有料道路を走り山の途中まで登っていくことが出来る。駐車できる台数は10台程であろうか? 駐車場で降りると直ぐに目加田屋敷跡の案内が目にとまる。それ以降は案内が少ない。安土駅観光案内所で案内図があるので必ずGETしてから登城することをお勧めする。観音正寺は作事中であった。下側の石垣の横を歩いて山を登っていった。途中脇道を登ってみることにする。石段があり人の手が加わっているのが分かる。所々石垣も出現し削平地も確認できるが、整備されていないため草木で覆われている。元に戻り三の丸から本丸に向かう。立派な石段である。本丸に出ると石垣で作られた本丸虎口が確認できる。奥には井戸跡と思われる石で囲ったものも確認できた。かなり広い本丸である。佐々木城碑を見るためにネズミ岩の横を入って登っていく。案内板が無いので見つけることが出来た人はラッキーなのか? 大きな石と岩が出現し岩の上に佐々木城址碑有った。おそらくここは伊庭郭であると思われるが・・・何故ココに城址碑を建てたのであろうか疑問である。石段を下りると奥の院が有った。奥の院を目指してそこの上に向かった方が分かり安いかも? |
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伝説等 |
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滋賀県安土町町役場
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攻城日 |
01.10.08 |