写真 |
尾末町付近より |
佐和口多聞櫓 |
佐和口多聞櫓 |
佐和口多聞櫓 |
佐和口多聞櫓 |
佐和口多聞櫓 |
佐和口多聞櫓 |
馬屋 |
佐和口多聞櫓内側より |
表門橋 |
表門橋左手 |
大手門橋 |
大手門橋 |
大手門橋付近 |
彦根西中付近 |
彦根西中付近 中壕 |
彦根西中付近よりの天守 |
彦根西中付近よりの天守 |
家老脇屋敷長屋門 |
家老脇屋敷長屋門 |
地図 |
説明 |
表門橋付近 |
券売所先 |
天秤櫓 |
天秤櫓 |
天秤櫓に向かう階段 |
天秤櫓正面 |
天秤櫓説明 |
天秤櫓先 |
時報鐘 |
時報鐘説明 |
太鼓門前石垣 |
太鼓門 |
太鼓門説明 |
天守 |
天守 |
太鼓門 |
太鼓門より |
天守 |
天守 |
天守内部 |
天守内部 |
天守内部 |
天守内部 |
天守内部 |
天守より |
天守台 |
天守説明 |
ごぼう積み |
天守 |
天守 |
天守 |
西の丸三重櫓 |
西の丸三重櫓 |
西の丸三重櫓 |
西の丸三重櫓 |
西の丸三重櫓 |
西の丸石垣 |
西の丸石垣 |
西の丸石垣 |
西の丸石垣 |
西の丸石垣 |
西の丸石垣 |
人質郭付近 |
人質郭説明 |
人質郭付近 |
人質郭付近 |
土塁 |
井戸跡か? |
黒門に向かう左手 |
縦堀? |
黒門 |
黒門 |
黒門 |
欅御殿 |
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楽々園 |
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玄宮園 |
玄宮園 |
玄宮園 |
玄宮園 |
玄宮園 |
玄宮園 |
井伊直弼 |
内壕 |
馬屋 |
馬屋説明 |
馬屋 |
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城名 |
彦根城 ひこねじょう 平山城 |
別名 |
金亀城(こんきじょう) |
建築年代 |
1603年(慶長八年) 1622年(元和八年)完成 |
築城者 |
井伊直勝 |
文化財指定等 |
国宝四城の一つ。彦根城一帯は特別史跡。佐和口多聞櫓(重文)。馬屋(重文。彦根城以外では見られない) 天秤櫓(重文)。太鼓門(重文)。西の丸三重櫓(重文) |
住所 |
滋賀県彦根市金亀町 |
地図 |
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最寄り駅 |
JR東海道本線彦根駅から徒歩10分 |
歴史 |
関ヶ原の合戦で家康は大勝利を納め井伊直政に6万石を加増。18万石として佐和山城に封じた。北国道・中山道の押さえとして佐和山城に変わる新城を計画したが、病没。その意志を継いで直政の子、直勝の代に諸大名十二家(公儀御奉行に山城宮内少輔忠久、佐久間河内守政真、犬塚平右衛門に命じて工事の監督にあたらせ、伊賀・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の七ヶ国十二大名)に助役普請を命じ、約20年の歳月を費やし完成する。畿内北方の要として天下普請によって築かれた訳だ。湖東周辺は、佐々木六角・織田信長・豊臣秀吉と言った旧勢力のゆかりの地であり、宗教勢力の根強い地域でもあった。家康・直勝にとってこれら旧勢力に新しい支配者であることを宣言する必要が有ったため多くの政治的配慮がなされた。四重にも及ぶ石塁と壕を巡らす大規模築城は言うまでもなく、旧勢力の主な建築物を移築させて彦根城の飾りとした。天守は京極氏の大津城。天秤櫓は秀吉の長浜城。太鼓門は三成の佐和山城。西の丸三重櫓は浅井氏の小谷城天守より。破却されているが山崎三重櫓は長浜城天守。佐和山口多聞櫓は佐和山城。石垣の石材は安土城・大津城・長浜城から移したと言われている。 工事は一時的に中断され、再開されたのは大阪の陣の後で、当時の井伊家は元和元年(1615年)20万石。同三年に25万石に加増されている。元和二年から再開された工事は天下普請ではなく、領内の人夫を動員して進められた。この間に井伊家当主も直勝から直孝に変わる。直勝は病気がちであったため弟直孝に家督を譲ったと言うが、一説には次の様になる。直勝は時期柄うるさ方の多い家中を御しきれない所があり、とかく風評も立った。そこで幕府は彦根が重要な場所であるため、直勝を嫌い、英傑の風を示す弟に交代させた。いずれにしろ直孝は幕府、家中双方の期待に応えることとなる。幕府に置いても力量が捨て置けないものとなり譜代の代表と目されるに至って、三代将軍家光の政治に譜代の意見を代表する人物として参画する。井伊家が譜代筆頭として幕府に発言権を持つ下地は直孝が築いた訳だ。彼の地位は後世で大老と考えられる様になる。井伊家は明治維新に至るまで彦根藩主であるが、中でも有名なのが13代直弼だ。直弼は十一代直中の十四男として生まれる。通称は鉄三郎と言い、母は側室のお富の方。1850年(嘉永三年)直亮が死去したため居領を継いで十三代藩主となり掃部頭を称した。1858年(安政五年)四月に大老職に就任して早々に強引に日米修好通商条約を結び尊壌派を激昂させる。これを機に公卿・大名・尊壌派の間で不穏な動きが出たため機先を制すべく安政の大獄を断行した。その後も先に朝廷が水戸藩に降した密勅の返納を強く迫ったことから、水戸藩の過激分子を刺激して脱藩させ薩摩藩士の過激派に合流させる結果を招いた。1860年(万延元年)3月3日桜田門外で水戸藩士ら(18人)の襲撃を受け首をあげられた。享年46歳。 彦根最後の藩主は、直弼の次男直憲。 |
感想 |
夜間照明も有るので近くのホテルに泊まれば夜景を楽しむことも出来る。二の丸佐和口多聞櫓の門跡にまで車で入っていける。これには少し驚いた。直ぐに他の城では残っていないと言う馬屋だ。登城口を登っていくと天秤櫓が目に入ってくる。橋を落とせば完璧な防御になることが想像できる。反対側の西の丸への入り口にも橋が架けられそこには高い石垣の上に三重櫓が建つ。天守付近の雑踏が嘘の様に静かな場所で、重文なのに訪れる人が少ないのが残念だ。太鼓櫓は、何処の城にも必ずと言っていい程有る各地の城の写真館と成っている。天守台の石垣は、ゴボウ積みと言われるそうで綺麗な色も楽しめる。天守は外観三重、内部3階。二階櫓の上に高欄を配した望楼を乗せた感じだ。一階から三階まで通る一本柱を使用せず、一階の上に二階を乗せるという感じの各階を積み上げる方式を採っているという。天守だけではなく生活の場所である御殿の楽々園。庭園である玄宮園も是非訪れたい場所だ。楽々園には地震の間等面白い部屋も有った。玄宮園から見る天守は最高の眺めでした。 |
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城攻め4弾 姫路・彦根・安土・観音寺の旅 |
伝説等 |
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勝手にリンク |
滋賀県安土町町役場
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攻城日 |
01.10.07 |