写真 |
市ノ橋門跡 |
市ノ橋門説明 |
現地地図 |
市ノ橋門跡から見た天守 |
市ノ橋門跡 |
大手門付近から |
警察署前付近から |
動物園付近から |
歴史博物館付近から |
姫路城説明 |
内堀以内の絵図 |
南勢隠門 |
南勢隠門付近外堀 |
大手門 |
向御屋敷跡付近から |
三ノ丸付近から |
三ノ丸付近から |
西ノ丸隅櫓 |
姫路城の歴史 |
菱の門 |
西ノ丸渡り櫓 |
化粧櫓 |
化粧櫓付近から |
ロの門 |
ハの門 |
天守入口付近から見上げる |
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備前丸から |
備前丸から |
油壁 |
油壁とホの門 |
西の丸の矢狭間 |
お菊井戸 |
備前門 |
太鼓櫓 |
ヌの門渡り櫓 |
扇の勾配 |
埋門?(^^;;; |
お天守の庭 |
西の丸隅櫓下から |
居屋敷跡付近から |
大手門付近の濠 |
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城名 |
姫路城(ひめじじょう) 平山城 |
別名 |
白鷺城(はくろじょう) |
建築年代 |
1609年(慶長14年) |
築城者 |
池田輝政 |
文化財指定等 |
国宝・世界文化遺産 |
住所 |
兵庫県姫路市本町68番地 |
地図 |
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最寄り駅 |
JR山陽本線姫路駅 |
歴史 |
「ひめじ」は蚕の子の事で、姫路城のある二つの丘は姫山・鷺山と呼ばれ、ちょうど蚕繭の形に似ていた為だという。姫路の中心部の姫山が城地に選定されたのは、南北朝の初めで1346年(正平元年)。縄張りを行ったのは赤松則村の次男貞範で、その後家臣の小寺氏が居住した。代々小寺氏は「姫山城」と呼んでいた。則村の四代目の満祐の時赤松氏は滅亡し、小寺氏も共に殉じる。その後には、山名持豊の家臣が入る。応仁の乱で赤松氏が再興されると小寺氏は再び姫路城に入り三代が相続する。1577年(天正五年)織田信長の中国方面司令官として羽柴秀吉が入ると、赤松系諸城は、三木城の別所長治とともに三年間の抵抗で滅び播磨は秀吉の支配下に入る。姫路が近代的な城郭と成ったのはこの時で、小寺氏のあとを受けて姫路城にいた黒田孝高は、姫路城を秀吉に献じ、秀吉は浅野長政を奉行にして三層の天守を築いた。同年の天正十一年に大阪城を築いた為、秀吉は移り、替わって秀吉の妻ねね(北政所)の実兄木下家定に預けられ1600年(慶長五年)の関ヶ原を迎えることになる。これにより豊臣系勢力は大きく崩れ、播磨国五十二万石は家康の女婿池田輝政に与えられた。三河吉田十五万石からの大抜擢であった。これは戦功の故ではあるが、家康との縁も作用している。1594年(文禄三年)輝政は家康の次女督と再婚している。督はもと北条氏直の妻で、輝政の前妻は嫡男を産みながら病気を理由に離縁されている政略結婚である。督は、忠継・忠雄らを産み、忠継には備前。忠雄には淡路を与えるという優遇を受け、輝政は親子で百万石を越える所領となり西国将軍の異名をとったという。それにふさわしい城郭にするため姫路城は整えられた。現在の状態はこの時計画され、約九年の歳月と延べ五千万人の人員を要して1609年(慶長十四年)に一応の完成を見せ、1617年(元和三年)に入部した本多忠政が残されていた西ノ丸と中曲輪諸門を築造して城地を完成させた。 その後の城主は徳川一門もしくは譜代大名が交代し幕府の行う関西諸侯対策の要となった。 |
感想 |
東京からバイクで向かい、当日見学するという暴挙に出た(笑) 到着は3時頃。まずは城の周りを一周することから始めた。上の写真のように見る角度で全然違う表情を見せる。流石、世界遺産に登録され国宝の指定は伊達ではない。これほど建物が現存している城が美しいモノであるとは・・・しかし、攻め手として考えた場合、簡単に天守付近まで行けるが迷路のようになり行く手を阻む城であり、UpDownが攻め手を困惑させるであろう。そして多くの門が阻み、狭間からは容赦なく矢や銃口が牙を剥く。実際にこの城で戦いが行われていないが難攻不落であった事が想像出来る。一応城内をビデオ撮影しつつ、写真も撮ったが是非とももう一度訪れたい城だ。
入城時間:9時〜16時 閉門17時
但し6〜8月は 9時〜17時 閉門18時
休場日:12/29〜31日
見学所要時間 1時間30分 |
関連ツーレポ |
城攻め4弾 姫路・彦根・安土・観音寺の旅 |
伝説等 |
1613年池田輝政が死去し池田家を動揺させることになる。督は忠継に池田宗家と姫路城を望んだが幕府の許可は下りず、利隆が姫路城に入り石高は42万石。忠政遺領の10万石は岡山城の忠継に渡され38万石となる。しかし、督は納得せず、毒饅頭事件が語り継がれることになる。督は利隆の毒殺を図ったが、それを察した忠継が自ら食し、督も驚き悲嘆のあまり毒饅頭を口にするという話だ。1615年督と忠継は死去し、翌年利隆も死去。
池田時代が終わると、本多忠政が入城。忠政は徳川四天王本多忠勝の子。入城の理由は家柄と忠政の嫡子忠刻は、家康の孫娘千を妻にして居た為という。千姫は元豊臣秀頼の妻。この時に、西ノ丸内の化粧櫓と三百メートルに及ぶ百間廊下で繋がれる付櫓、渡櫓が築造された。化粧櫓は千姫の居室。1626年(寛永三年)に再び10年で夫を失い、内紛により本多氏も姫路を追われることになる。
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勝手にリンク |
姫路電脳かわら版
世界文化遺産国宝姫路城
世界遺産姫路城 |
攻城日 |
01.10.06 |